江戸の歴史を明日へ繋ぐ街「紀尾井町」
「東京ガーデンテラス紀尾井町」が誕生してから8年。紀尾井町には、新しいイメージが定着しつつあります。では、住む場所としての魅力はどんなところにあるのか。昭和20年(1945年)からこの地に店を構える日本料理店「福田家」4代目、福田貴之さんに伺いました。
赤坂御用地に隣接する一等地
千代田区紀尾井町は、赤坂見附の交差点から弁慶橋を渡った先にあるエリア。皇居にほど近く、四方を赤坂、四ツ谷、麹町、永田町、平河町に囲まれ、西側では赤坂御用地に接する都心の一等地です。ランドマークは「ホテルニューオータニ」と、「旧赤坂プリンスホテル」の跡地に誕生した「東京ガーデンテラス紀尾井町」。また、JR四ツ谷駅に向かう一帯には「上智大学四谷キャンパス」が広がっています。
町名になった「紀」「尾」「井」とは?
紀尾井町の名前は江戸時代、この地に武家屋敷を構えていた「紀州徳川家」「尾張徳川家」「彦根藩井伊家」に由来します。「紀尾井町」が誕生したのは、明治5年(1872年)。「紀」「尾」「井」と、三家から一文字ずつとって名付けられました。
「東京ガーデンテラス紀尾井町」が立つのは「紀州徳川家」の屋敷跡地。赤坂見附の交差点付近にはまだ江戸時代の石垣が残っており、当時を偲ばせます。
「尾張徳川家」屋敷地跡には上智大学がキャンパスを構え、「彦根藩井伊家」は、ほぼ現在のホテルニューオータニの敷地と一致します。
古地図を見ると、三家の敷地の広さは近隣の武家屋敷に比べ格段に広く、江戸幕府の中枢を担う大名として、いかに有力だったかを雄弁に物語っています。
では、現代の紀尾井町はどのような場所なのでしょうか。街の変遷を見てこられた紀尾井町「福田家」4代目、福田貴之さんにお聞きしました。
魯山人ゆかりの由緒ある店
――「福田家」はいつから紀尾井町に店を構えていらっしゃるのでしょうか。
福田貴之さん(以下、福田):昭和20年(1945年)です。昭和14年(1939年) に虎ノ門で開業した割烹旅館が戦災に合い、紀尾井町の尾張徳川家の中屋敷があった場所に移転しました。この場所で平成28年(2016年)まで営業し、祖父の遺産相続時に土地と建物を上智大学にお譲りしました。
福田:そこから、紀尾井町の中で1度移転し、現在の店は、「東京ガーデンテラス紀尾井町」と清水谷公園の間にあります。
――長い歴史をお持ちなんですね。
福田:「福田家」は、私の曽祖母が女手ひとつで始めた旅館でした。その時にお世話になったのが北大路魯山人でした。今でいうアドバイザーのような存在です。魯山人は、私どもの旅館を東京の宿として利用されつつ、北鎌倉に窯をお持ちでした。そこから、ときにはトラック山積みの陶器を送ってくださったこともあったようです。そのような経緯で、現在、2000点ほど作品を所有させていただいています。
――素晴らしいですね。こちらにお見えになるお客様は、どんなライフスタイルの方が多いのでしょう。
福田:私が入った2008年ころは、ほぼ9割が接待か、政治家の方々のご利用でした。現在は様変わりして、約6割が海外からのお客様です。ミシュランガイドで17年連続二つ星をいただいておりまして、その影響がかなりあると思います。それ以外は、結納などのお祝い事でお使いいただくケースが多いです。
――「魯山人の器で特別献立を楽しむ会」という催しをされていますが、どんなお席ですか?
福田:毎月、第3土曜日のお昼に開催して、もう6年になります。常連のお客様を中心にご案内しています。お食事の他に、ふだん使わない器を展示するのですが、『こんなものもあったんだ』と、私自身も驚くようなものが出てきますね。
誰もが名を知る著名人が住む街
――福田さんご自身は、紀尾井町とはどのように関わっていらっしゃったのでしょうか。
福田:祖父母が店を構え、住居にもしていましたので、物心ついたときからですね。私は麹町で生まれ育ち、紀尾井町の清水谷公園でよく遊んでいました。このあたりは(都心にしては)緑が多いんです。ニューオータニさんには庭園がありますし。
福田:最近は、SNSのおかげで小学校の同窓会ができるようになりまして、一度離れたものの『やっぱりこの辺が好きだ』と、戻ってきている人もいますね。
――このあたりにお住まいの方はどんな方ですか?
福田:うちの叔母がまだ住んでいます。昔の街をよく知る人たちが、かなり高齢になられているというのはありますね。その一方で近隣のレジデンスや、最近新しくなった参議院清水谷議員宿舎には、聞けば誰もが名を知る著名な方々がお住まいです。
住居自体の数が少ない紀尾井町。この街を住まいとするのは、昔からの地縁がある方か、もしくは、各方面でご活躍の方々という印象を受けました。
――ここに住まわれている方にとって、紀尾井町の魅力はどんなところにあると思われますか。
福田:夜は静かだと思います。オフィスや商業施設があるので日中は人口が増えますが、それでも街の喧騒は感じないですね。
――日常の買い物はどうされているんでしょうか。
福田:「東京ガーデンテラス紀尾井町」に「成城石井」が入っています。が、たしかに、生活環境としてはそういうインフラが少ないかもしれません。20年前に父母が暮らしていたころは不便を感じていたようです。まあ、今はネットスーパーもありますしね。
2020年にオープンした四ツ谷駅前の複合施設「コモレモール」にある「ライフコモレ四谷店」も、紀尾井町からは車が欲しい距離。『日常の買い物は車で』というのが、紀尾井町のライフスタイルと心得ましょう。
垣根を超えた地域の繋がりがある
――紀尾井町の街の移り変わりもご覧になってきていると思いますが。
福田:弁慶橋から続いている「福田家」の前の「紀尾井町通り」は、以前、ミラノと提携していたことがあるんです。当時は、グッチ、ヴェルサーチ、アルマーニなど、イタリアブランドさんが軒を連ねていました。1990年代の後半から2000年代のはじめくらいですかね。
――「旧赤坂プリンスホテル」は「東京ガーデンテラス紀尾井町」に変わりました。
福田:高層だった赤プリ(「旧赤坂プリンスホテル」)の新館は、丹下謙三さんの建築でした。1983年の開業だったので、そんなに古い建物ではなかったんですよね。建て替えが始まったときは、築30年くらいだったと思います。
「東京ガーデンテラス紀尾井町」は2016年開業。オフィス、ホテル、商業施設等が入居する「紀尾井タワー」、賃貸の「紀尾井レジデンス」、「赤坂プリンス クラシックハウス(旧グランドプリンスホテル赤坂 旧館)」の3棟で構成されています。
福田:じつは「福田家」のある場所も、赤プリさんの建て替えよりも前に再開発の話があったんです。けれど、当時の石原都知事が承認せず、実現しなかった経緯があります。20年くらい前の話でしょうかね。
今ここにこうして、福田家さんの風情漂う日本家屋のお店があるのは、その再開発の話がなくなったからこそ。当時の決断は、紀尾井町にとっては良かったのではないでしょうか。
――街が変化しても『ここ好きだなぁ』と思われるところはありますか?
福田:建物が変わって、テナントさんが変わっても、みなさん、「紀尾井町町会」に入ってくださることです。うちの祖父の福田彰が初代会長でした。かつて、紀尾井町の名前が変わろうとしていた時期があり、祖父が猛反対し、千代田区長はじめ行政に何度も交渉して、今の紀尾井町の名前が残っています。これは、千代田区の東側、外神田、内神田という住所が生まれた時期であると記憶しています。
――現在、町会は主にどんな活動されているんですか?
福田:代表的なのは、江戸3大祭りの1つと言われる「山王祭」の協力ですね。今年(2024年)は6月に開催されます。新しいテナントさんも、地域のつながりに関わってくださるので、昔ながらの紀尾井町の雰囲気が保たれている。そんな感じがしますね。
将棋を楽しむ時間のゆとり
最後に、福田さんにとって豊かな暮らしはどんなものか、お聞きしました。
福田:時間にゆとりを持ちたいですよね。昨今、思い出すのは、以前「福田家」で、財界の方がなごやかに楽しまれていた囲碁や将棋の会のことです。みなさん早めに来られて、応接で相撲を見て、その後に、会食を始めるんです。
もともと旅館だった「福田家」は、囲碁、将棋の名人戦の会場になっていたこともあり、囲碁、将棋とは縁が深いそう。
福田:私も小学生のころは、将棋倶楽部に入っていましたけれど。今はもう…。本当に、そういう時間的な余裕が欲しいですね。
いかがでしたか。
魯山人の精神と日本の文化を守りながら、海外にもファンを増やしている福田家さん。その姿は、江戸時代の武家屋敷をルーツとし、時代の変化とともに歩んでいる紀尾井町とも重なります。この街には、現代の私たちが失ってしまった、ゆっくりとした時間の名残がまだどこかに感じられる。それが紀尾井町の住む場所としての魅力になっているように思いました。
福田 貴之 Fukuda Takayuki
「紀尾井町 福田家」(料亭・日本料理屋)の四代目。 1939年の創業以来、政財界や文化人御用達の老舗料亭として名を馳せ、17年連続ミシュラン二つ星を獲得。 曾祖母の代から引き継がれる、北大路魯山人の約2,000点の作品と美学を伝え続けている。 https://www.kioicho-fukudaya.jp