生活が芸術であるために
──この度、芸術系公益財団理事長であるY氏のご自宅の一部を拝見させていただくことが叶った。
2022年2月末のこと。昨日このベアーズマガジンを漸くリリースしたばかりで未だデジタルな雑音が巡る中、撮影日が訪れた。図らずも扉を開けると、そんな人の邪気を洗う不思議な時空へと誘われた。
無垢
凛とする。
ご自宅へ招かれ背筋が伸びる。
ある種、ピリリと緊張感が心地いい。
他人宅での空気とは明らかに異なる。
神明へ向かう時のそれと似ていた。
日々の営みの中で汚れ、傷つき、次第に古くなっていく。
そこに味わいがある。家も人と同じで年季というものを感じていく。
それなのに、五年を経過したこの部屋にはそれが見当たらない。
まるでついこないだ引き渡されたかのように真新しい。
無垢に触れているかのようでなんだか自分が恥ずかしい。
2017年、全面リノベーション。
ヴィンテージマンションの一室とは思えない空間へと変容した。
ご夫妻にはまだ小さなお嬢さんがいらっしゃり、子育て用の別宅にて現在は暮らされていてこの場所へは週に1回ほど帰ってくるそう。たまに客人をもてなすためにも使用することもあるが、通常の使用頻度はかなり低い。将来的にはお子さんの成長に合わせて居をこちらに移される予定らしい。
休息を家に与えながら住まう。
にしても……
この空間は美しすぎる。
その訳はすぐに判明した。
総桐の床。
垂直水平 節目なくあかるく、やわい素肌で全体性を保つ。
その静寂へ
「ガタン。……あっ!」
撮影開始直後、ふとしたことでPCが床に落ちてしまった。
(一同ヒヤリと凍る。)
撮影の中断も止む終えないかと思った瞬間、慌てる周囲をよそに、Y氏は淡々と指示を出し、すぐさま修復の方が入り傷の手当をなさっていく。
その後、ほぼ目立たないほど綺麗な状態へと回帰。
おかげさまで何事もなかったかのように撮影は滞りなく進んだ。
余計なこと
ただ在る。ただ真っ直ぐに観る。
向き合うことでしか見えないものがある。
向き合えないことがあるのは垢のついた自分自身であって、見ないもの知らないままでしか感じ得ないものがあるのかもしれない。
知ってしまったのなら、どうしてただただそのものに素直に出会えるだろう。
「生活は芸術である」
川端康成の書が脳裏に巡る。
雪深い上越から山形、祖父の故郷を旅した際に出会い、すきになった。
そんな個人的な居心地を思い起こしていた。この空間に抱かれ、しだいに頬は和らぎ寛いでいく。
僅かな時、ただ居る。
ことばのない美の対話が始まった。